生成AIを使って描かれた絵について
- 2026.11.06
- 未分類
生成AIを使って描かれた絵に対して、制作という過程をすっ飛ばして結果だけ出している、と否定することは容易い。そこでは、人間が描いた絵には無い、生成AIで描かれた絵の特徴、みたいなものを感じることは出来るが、「ああ、これAIで作ったんだな」という感想を超えていくことはあまりない。
しかし、もし例えば自分にプロンプトに対しての習熟度があれば、生成AIで描かれた絵に対しても、作者の意図や意思みたいなものを感じることが出来るのだろうか。もしかしたら、プロンプト以外でも、純粋に絵からそれらを感じることが出来る人もいるのかもしれない。
制作の「過程」に対して、作者の画力に準ずる技術や、時間の積み重ねのことのみを言うのはナンセンスだとは思う。手で描く、画材を使って描く、iPadで描く、何でもいいのだけれど。
しかし、そもそも上手い下手関係なく、絵を描く、ということの楽しさ面白さはあって、実際に手で描いてみないとわからないじゃないか、という気持ちがある。
自分がこだわっているのは、まさにこの「手で描く」ことの意味なんだろう。
何かを見たり、感じたりして、それを自分というフィルターを通して、手を使って描く。
この一連の流れが面白いし、楽しいと感じている。それは絵でも文章でも、料理なんかも同じだと思っている。
それでは、「生成AIを使う」ということも、画材の一種として捉えることが出来るのか、というと自分にはその感覚はまだ無い。プロンプトを練ることには、経験として積み重なっていく感覚が生まれるかもしれないけど、その結果として生まれるものに愛着のようなものが湧くかというと、今の所、答えはNOだ。そこで生まれるものにはどうしてもガチャ的な要素というか、手探りが過ぎる感じがして、自分というフィルターを通した感じがしない。
自己に限定される必要が無くなってくるのなら、そもそも作る意味とは。
個人の限界に既定されること、から解放されることが果たして面白いことなのか。まだ不明過ぎる。
自分というフィルターを通して、自分の身体を使って何かを作るということ。
それは素材や環境から、自分の体が得た情報を、外に発信している行為なのではないだろうか。
制作の価値は自己表現ではなく、自分の体を通すこと自体に意味があるのでは無いか。
(自己表現の欲求もなかなか消せないけど。)
手で作られた成果物は単なる情報の入れ物ではなく、そこには作り手が世界をどう感じ、どう解釈し、どう反応したかという痕跡が残っている。だから面白いし、上手い下手関係なく誰にでもやって欲しいし、生成AIを使うよりよっぽど誰もがやればいいのになあと本気で思っている。
みたいなことを考えているのだけど、ってことをChatGPTに相談してみたら、ティム・インゴルドの『Making: Anthropology, Archaeology, Art and Architecture』という本を薦められた。面白そうなので読んでまた感想を書いてみる。他にも参考になりそうなティム・インゴルドの論文のリンクなども教えてくれた。自分で検索しても辿り着けるかはわからないし、こういうのは本当に助かるな…
しかし、ChatGPTと壁打ちしているだけで頭が良くなったように簡単に錯覚しちゃいそうなので注意。ひとまず読みます。
| メイキング 人類学・考古学・芸術・建築 [ ティム・インゴルド ]価格:3410円 (2026/11/5 23:47時点) |
| メイキング 人類学・考古学・芸術・建築【電子書籍】[ ティム・インゴルド ]価格:3410円 (2026/11/5 23:48時点) |
-
前の記事
ブログ考 (2026_09_27) 2026.09.27
-
次の記事
記事がありません
