眠ることについて

友人に、眠ることが面倒だと言っている人がいる。眠らなくても済むのなら全く眠りたくないと。
自分はたまに大量に眠らないと結構体がしんどくなってくるし、そもそも睡眠がとても好きなので、この発言には心底驚いた。

これはまず、「時間」という概念がこの世にあるからこそ思うことのような気もしている。
唐突ですみません。まあ大した話でもないが聞いて欲しい。

眠ることに限らず、人間は1日の時間を24時間と定め、様々な行為をそこに振り分けている。
仕事をすること、誰かと過ごすこと、趣味に没頭すること、眠ること。

その結果、眠ることを他の何かの振替品として捉えてしまうから、自分にとって必要のないものと感じてしまうのではなかろうか。これが無ければもっと他のこと出来るのに、と。

しかし、そもそも眠ることは眠ることだと思うのだ。食べることもそうだが。

人間の持つ生理的な欲求


眠ること、食べること、排泄をすること。この3つを原初的な欲求として、3大欲求と定義したのはマズローという心理学者だそうな。ちなみに排泄欲には性欲も含まれる。マズローは人間の欲求を5段階に分け、先の3つの欲求を「生理的欲求」と定義し、5段階のピラミッドの一番下の階層に配置した。要は欲求の中でも一番基本的で本能的、優先度の高い3つというわけだ。

確かに、食べて、寝て、排泄する、このサイクルは理性で止められるものではない。
環境によってそれらが麻痺していたり、滞っていたりする場合もあるだろうけど、本来は自然にこなしていくものだろう。つまり、あまり考えることは必要としない3つのはずなのだ。

本能に根付いていたはずのこれらの欲求を必要としない、ということはどういう状態なのだろう。

例えば食欲が足りない代わりに、それに代わる他の欲求を満たすことで、本来食欲を満たすことによって補われる何かを補おうとしているのだろうか。

人間が作り出した様々な欲求

何だか結構不思議な気持ちになる。おそらくそれら振替としての欲求は人間しか感じないもののような気はするが、他の生物に確かめる術もない。そして、それらは人間が「考える」ことによって生まれてきたのではないだろうか、とこれも人間だから考えてしまうのかもしれない。

考えることを必要としないはずだった生理的欲求の振替品を、考えることで生み出したのであれば、その時点で生物としての歪みをやや感じてしまう。

まあ皆好きに選んで暮らしているのだから、人によっては辛くもないだろうし、必要としない欲求だってあるのかもしれない。けれども、生物として身体に影響はないのだろうか、と少しだけ思ってしまう。それが進化なのか退化なのかは、正直よく分からない。

欲求と本能の境目

別に眠ることを必要としない人々のことを悪く言うつもりはない。自分がもし眠らなくて良い体だったなら、同じことを考えるかもしれないし。個人的には、眠ることも食べることも、もちろん排泄することも、出来るなら余計なことを考えずに楽しみたい。

自分が走ることが好きなのは何も考えずに没頭できるから、と先の記事に書いた。この辺りの感覚も、繋がってくる話なのかなあとも思う。
物事に意味を見つけることは面白いし、それはそれで様々な欲求が満たされる。しかしそれは人間特有のもので、自分の体の方は、よりシンプルな欲求に倣いたいと無意識に感じているのかもしれない。

自分の中のイメージとしては、欲求は意識と、本能は無意識とセットになっている。
言葉としては生理的欲求とされているけど、これら3つは本能でいいんじゃなかろうか。

何となく、意識の外にある原始的な感覚をもっと大切にしたい。それが何故かはよくわからないが、警鐘のようなものを自分の中にボンヤリと感じている。

まあ、こういうことを考え出した時は寝るに限るのだが。