手紙を書くことについて
- 2017.11.21
- 更新日:2022.02.11
- 手紙文化
久しぶりに実家に戻り、部屋を物色していると昔もらった手紙を大量に見付けた。私は学生時代から手紙を書くことが好きで、知り合った人に突然出したりということをよくしていた。
人によっては住所を聞くタイミングで断られたりもしたが、続けられる人とは数年に渡って何度もやりとりをしたものだった。
旅先から出したりするのももちろん好きだったが、メールや電話をしようと思ったタイミングで手紙の方が良いなと思い直して夜中に書き始めたり、今にして思えばやはり相手との関係性ありきのものである。
家族に、友人に、恋人に、先輩や後輩に、お世話になった恩師に?
形式的なものも含み、相手との関係性が手紙の内容を決めると言っても過言ではない。
いろんな人との関係性のカタマリを無造作に部屋に広げながら、しばらくその内容に没入してしまった。
手紙は重いのか軽いのか
今は手紙って書く人減ったのだろう。昔よりも住所を聞くことに抵抗を示す人が増えているような印象がある。そもそも、手紙に対してちょっとヘビーなイメージを持っている人は当時から少なくはなかった。
かなり軽い気持ちで出していたものの、内容は真面目過ぎるほど真面目に書いたし、相手に対する信頼があったからこそ出来ていたのは間違いない。
自分にとって、手紙を書ける相手というのはとても大切だったと思う。大概そういう人とは実際に会って時間を過ごしていても、素直にリラックスして過ごすことが出来た。
取り立てて喋らなくても、気持ちよく時間と空間を共有出来る人たちだった。
手紙のやり取りで共有していたもの
実際に会うだけでも満足していただろうに、何故その上、手紙まで書きたくなったのだろう?
一つ言えることは、手紙を出すような相手とは、普通の友人たちとは違う時間感覚の中で付き合っていたようなフシがある。
普通に会っている時も、手紙を書いている時も、返事を受け取った時も、会っていない時でさえ、その人たちと共有している時間にはそれぞれ優劣が無かった。
毎日の時間の積み重ねの中で関係を深めていくというより、何年かに一回会うような人であっても、何も気まずくないというか。表現が難しいが・・。
だからこそあまり細かいことは考えずに、ゆっくりとした長い時間の中で手紙という関係性が成り立っていたようにも思う。
何にせよ、手紙のやりとりをすることで当時の自分は何がしか救われていた。許されていた、と言っても良いのかもしれない。相手に素直に気持ちを伝えることと、相手から素直な返事をもらえることで、大げさに言うと、自分が生きていても良いような気がしていたのだろう。
また、そういう付き合い方が成立しているということが、それ以外の付き合い方に対するささやかな抵抗のような想いもあったかもしれない。
自分が出した内容はもはや覚えてはいないし思い出すのも怖いが、お互いにとってとても小さくて大切な世界がそこにあったことが、もらった内容からも感じ取れる。
こうして当時の気持ちを反芻してみると、気軽に書いているつもりだった割に随分と気負ってもいる。ただ、その二つが同居しているのが手紙というもののような気もするし、そもそもが独特なバランスのものなのかもしれない。
とても個人的なものでもあるし、紙に文字を書き形として残ることで、関係性ごと見つめているような俯瞰的な目線も持っている。
時間の切り取り
手紙と似た性質のものとしては、写真がある。どちらも時間や空間を切り取るものだけど、写真は対象が人じゃなくても良かったり、何を伝えたかったのか忘れちゃったり、残り方が少し曖昧だ。それが良さでもある。(あくまで個人的な意味での写真のことを言っているので、ドキュメンタリーなものは除いて。)
手紙は言葉なのでダイレクトだ、その上相手がいないと成立はしない。もちろん人以外の生き物や無機物にさえ手紙を書くことを別に否定はしないけど、どちらにしろ相手ありきだと思っている。
当時手紙を出していた相手はもう結婚したり、住む場所が変わったりしているので、闇雲に手紙を出せる相手はほとんどいない。読み返した手紙の内容もさることながら、そのことが一番時間の経過を感じさせた。
ひとまず未使用の絵葉書も併せて大量に出てきたので、こちらを持ち帰って久々に誰かに手紙を書いてみようか。