境目の街を無目的に歩く

昔は今よりも、ただ街を歩くことが好きだった。というよりもそれが出来た、と言うべきか。

「趣味は何ですか?」と聞かれる時は、必ず「散歩」と答えていた。別に写真を撮るわけでもなく、買うものがあるわけでもない。本当にただただ歩いて、街を見るだけ。街に居ることがそもそも好きだった。

いつの間にか、無目的に街に出かけることを避けるようになってしまった。時間の無駄な使い方が、年を追うごとに下手になっている。特に何も気にせず街をブラブラするなんて、人と待ち合わせをしている時くらいだ。何だか昔ほど、街に居ても落ち着かないのだった。

好みの街、というより領域

無目的、とは言っても、何となく自分が好む街のタイプがあった。大体それは、大きな街と大きな街の間の、何だかあやふやな空間だった。その街で働いている人以外、特に用の無いような、そんな風情の場所だ。

新宿だったら曙橋や若松河田のあたりとか、
渋谷だったら恵比寿との間の渋谷東のあたり。

地味で住宅街のようでもあり、けれども昔からの店などが突然あり、全体的に人が少ない。でも歩いてすぐ中心部に行ける。(行かないが)そんなとりとめもない街の公園か何かで、ぼんやり時間を過ごすのが好きだった。そして特に何もせず帰る。

魔法の言葉:パブリックスペース

その昔流行った言葉で「パブリックスペース」というものがある。大体が広場のような目的不明の空間に名付けるための、便利な言葉だ。

つまり基本的には何してもいい、とまではいかなくても相当自由度の高い空間のはずなのだが、まともに機能しているのを見たことがない。全く人が居なかったり、居たとしても端の方の花壇などに腰掛けている程度だ。公共建築には必ず付いていて、人が居ないのを見る度に、しめしめとのんびり過ごした。

本当は、街自体がパブリックスペースなんじゃないの、という気持ちが昔からある。

今はひと昔前より、ルールや監視でがんじがらめ過ぎて、街の持つ自由度がどんどん減っている。パブリックスペースではなく、意味のある(ありすぎる)空間が増えていくのだろうか。無駄で好きだったんだけどなあ、パブリックスペース。街には無意味な空隙のようなものが必要だ。

際<キワ>

久しぶりに10+1のサイトをみてみたら、東京の<際>について考察していた。
<際>という言葉はしっくりきたけど、思っていたよりも少しスケールの大きい話のようだ。自分はもっと狭い範囲で東京内に点在する、スリットのようなものをイメージしている。
あと、出来るだけ分かりやすい情報で定義されていない場所の方が、楽なのかもしれないな。定義しているのはあくまで自分なのだろうけど。

10+1は自分にとって割と思い入れのある雑誌であった。建築雑誌なのに写真や図面ではなく、主に膨大なテキストで建築を表現しており、雑誌の存在そのものがかなりコンセプチュアルなものだった。

まあ、この雑誌についてはまた改めて書いてみたい。何にせよ、当時この雑誌から拾い上げた団地や郊外、都市といったイメージは、今の自分にもまだ根強く残っているように思う。